+++イビハヤ+++  普段あまり使用していない場所にある、薄暗くて人通りも少ない階段を上っていると、不意に影が落ちてきた。  今は昼間だし、太陽が隠れる程雲が流れているような空模様でもない。  何かと思い、顔を上げてみると、人が落ちてきた。  ゴツンッ  …という、凄い音がした。  それが何の音かを知るのは、もう少し後になってから。 「痛たたたた……」  階段から落ちてきたのは、ハヤテだった。  だが、かなりの落差から落ちてきた割には振動はあったものの、痛みは全く無い。  目を開け、辺りをきょろきょろと見回してみる。  そして、自分の身体の下に、何やら足が見えた。  勿論、人の足のようだ。  ハヤテが恐る恐る振り返ると其処には、暗部の拷問・尋問部隊隊長の森乃イビキがいた。  イビキとは同じ特別上忍同士だが、普段から与えられる任務内容から、殆ど顔を合わせる事は無い。  目が合った。  その鋭い眼光に、ハヤテは思わず怯んだ声を出してしまった。  すると。 「そんなに俺は怖いか?」  ぽん、と後ろから頭を軽く叩くように撫でられた。  暖かくて、大きな掌だった。  ええと。  ハヤテは、いまいち今現在自分の状況がわからなかった。  今、わかっているのは、イビキがハヤテの座椅子になっている事だ。  つまり、今ハヤテは何故か、イビキの膝の上にいるのだ。  冷静になって考えてみよう。  ハヤテは、バクバクと脈打つ心臓を押さえながら、ついさっき起こった出来事を思い出してみる。  確か、火影様から書類整理を任されたのだ。  少し量が多かったから時間がかかってしまったものの、火影様に指定された時間内には余裕で終わった。  その書類を提出に行き、やっと任務が終わった、これから事務室でお茶でも淹れて飲もうかと思っていたのだ。  確か、特別上忍事務室にはゲンマとライドウとアンコがいた筈だ。  自分の分だけでは悪いから彼らの分も淹れましょう。  そう思っていた。  給油室にはどんな茶葉の種類がありましたっけ?  考えながら、歩いていた。  いつも使っているこの階段は、人通りが少ないだけでなく事務室への一番の近道なのだ。  だから、ハヤテはよく使っていた。  使い慣れている階段とはいえ、考え事しながら歩くものではない。  見事に一段目から、足を踏み外してしまった。  悲鳴は上げなかったと思う。  上げたとしても、ひゃっ、とか、うわっ、とか短い言葉だったと思う。  十五段以上はある階段を転げ落ちるのか、と覚悟をした。  激しい痛みに襲われるだろう、と確信していた。  だが、振動はあっても、痛みは全く無かった。  この状況から言える事は、恐らくたまたま通りすがりのイビキを下敷きにしてしまった、という事だろう。  その証拠に、つい先程ゴツン、という凄まじい音が聞こえてきた。  あれは、恐らくイビキが後頭部を壁にぶつけてしまった音なのだろう。 「…すっ、すみませ……っ」  慌てて立ち上がろうとしたが、イビキがその大きな腕で後ろからハヤテを自分の胸に抱き寄せてきた。 「え…っ」 「大丈夫か? 怪我、無かったか?」  その大きな手で、ハヤテの身体を色々と弄ってくる。  恐らくはただ、怪我をしていないのか確認しているだけだろうが、こそばゆい。  最後に、髪を撫でるように頭に触れてきた。 「ああ…怪我、していないようだな。良かった……」 「あ、はい…で、でも、イビキさんの方が……」 「俺は、平気だ」 「重い、ですよね? すぐどきますから…」 「どかなくていい」 「え……っ」  すると、再び抱き寄せられた。  今度は、力強く。  少し、苦しいぐらいに。 「あ。あの……」 「ん? 俺の腕の中じゃ不満か? やっぱりゲンマの腕の中じゃないと嫌か?」 「……」  まあ、確かにそうなのだが。  だが、そうハッキリと言えるわけがない。 「さっき…ゴツンって凄い音がしたんですけど…頭、ぶつけたんじゃないんですか…?」  恐る恐る振り返りながら、ハヤテはイビキの後頭部を見ようとする。  まるで背もたれに寄りかかるように、イビキは壁に背を当てていた。  心配そうなハヤテの視線に大丈夫だと答えつつも、一応額宛てを外してみせる。  額宛ての下からは、見るも無残な程の拷問による傷跡が残っている。  だが、ハヤテはその傷跡には一切怯まずに、イビキの後頭部にあるであろう、壁とぶつかった為にできているであろう瘤を探した。  そっと触れてみると、一箇所、後頭部に盛り上がっている箇所が見当たった。  やはり、瘤ができている。   「やっぱり、できちゃってますね…すみません」 「別に俺は、平気だが。それにハヤテを護る為にできたのなら、逆に誇らしい…」 「何言ってるんですか」  一応、イビキなりに格好付けて言ってみたのだが、一蹴された。  気付いていないらしい。  いや、寧ろ…  ゲンマ以外の人間には、一切興味が無いのではないか。  そんな事を考えていると、後頭部に何か温かいものが触れるのがわかった。  その「暖かいもの」は直接触れているのではなく、「当たっている」。  視線だけを向けてみると、薄いオレンジ色の光が鈍く光っていた。  医療忍術だ。  …ん?  あれ。ちょっと待てよ。  ハヤテは医療忍者か?  そんな疑問が、イビキの頭の中を過ぎった。 「……医療忍術、使えるのか……」  イビキのそのボソリとした呟きに、ハヤテはしまったと言わんばかりに何かに気付いたような顔をした。  そして、微笑んだ。  どう見ても誤魔化している。  …でもまあ、いいか。  こんなに可愛らしい笑顔を向けられては。 「内緒に、して下さいね」  悪戯がバレた子供のように、ハヤテは人差し指を立ててそれを自分の口元を押さえながら言う。  反則だろと思うぐらい可愛らしい仕草だった。  内緒…  二人だけの、内緒… 「ああ、内緒にしておく」  イビキも口元を曲げて笑いながら、そう答えた。  すると、ハヤテは嬉しそうに、そして照れているように笑った。  そんな、時だった。  ヒュン、と何かがイビキの頬を掠めて飛んできた。  それは、イビキの頬のすぐ横の壁にグサッと刺さった。  何かと思えば、それは千本……に見せかけた楊枝。  楊枝と言えば…… 、 「俺のハヤテに何やってんだ、この変態野郎」  こめかみに青筋を立てているゲンマが、階段の上にいた。  とんとん、とゆっくりと下りてくる。  その間ずっと、イビキを睨んでいる。 「ゲンマさん……」  イビキの膝の上で、ハヤテは困っているように恋人の名を呟く。  それを聞くなりイビキは急に切なくなり、ハヤテを後ろから抱き寄せる。 「あ、あの……」 「俺の方が、ゲンマより若いぞ」 「え」  確かに、イビキの方がゲンマより年下だ。  だが、ハヤテにとって、そんな事はどうでもいい問題だ。  別に、年齢で選んだわけではないのだから。  だが逆にゲンマは、少ぅしだけ気にしているらしい。   「いい度胸だな……クソ野郎」  銜えている楊枝(吹き飛ばした後、予備を銜えたらしい)をギリギリと噛み締めながら、ゲンマは近付いてくる。  だがイビキは全く気にせず、ハヤテを抱き寄せたまま。  ハヤテはすっかり困り切っている様子で、イビキとゲンマを交互に見る。  ゲンマとイビキの間には、確かに稲妻が走っていた。 「ハヤテ、そんな奴の膝の上なんざさっさと降りて来い」  人差し指でちょいちょいと呼び寄せる。  だが、イビキの腕の力は思っているよりずっと強く、離れられない。  振り向き、イビキの顔を見据えながら、ハヤテはハッキリと言ってみる。 「あの……離して下さい」 「俺より年いっているアイツの方がいいのか?」 「え、あの…それは…関係無いと思うんですけど」  チラ、とハヤテはすぐ傍に立っているゲンマの顔を覗き見てみた。  イビキが年齢の話をする度に機嫌が悪くなっているようだ。 「あいつなんかもう三十路だぞ。お前はまだまだ若いんだから、もっと自分を大事にした方がいい」  我慢の限界に達したらしいゲンマが何か言う前に、ハヤテは自分を抱き寄せるイビキの右腕を取った。  イビキとゲンマの二人が何をするのかと思っていると。  その掴んだ腕の袖を捲くり上げ、露になった右腕の肌に、ハヤテは思い切りがぶっと噛み付いた。 「痛ッ」  思わず、イビキはハヤテを抱き寄せていた腕を解いてしまった。  その隙に、ハヤテはパッとイビキから離れ、ゲンマの後ろにさっと隠れた。  ゲンマの服の裾を掴みながら、ゲンマの身体からちょこっとだけ顔を覗かせた。 「例え特上の仲間でも、ゲンマさんの悪口言う人は許しません!」  木の葉の仲間、ではなく、特上の仲間。  何となく、その方がハヤテの中では上位のようだ。  イビキは何故か、それが嬉しかった。  それどころか、ゲンマの背後から頬を膨らませた顔だけ覗かせてそんな事を言うハヤテが、例え一生自分のものにならないのだとわかってはいても、とてつもなく可愛らしく、たまらなく愛しかった。 「おうおう、そんな怒るなハヤテ。で…も怒っててもお前はやっぱり可愛いなぁ」  まるで我が娘を可愛がる駄目親父のように、これでもかと言う程目尻を下げ鼻の下を伸ばし、普段のイケメン顔からは想像も付かない程情けない顔になりながら、ゲンマはハヤテの頭を撫でる。  撫でられているハヤテは、上目遣いでゲンマを見詰める。 「怖かったか、そうかそうか」 「ゲンマさん来るの遅いですー」  ゲンマの服の裾を掴んでちょんちょんと引っ張りながら、やはり頬を膨らませてハヤテは言う。 「悪かった悪かった。それよりさ、ハヤテの淹れたお茶が飲みてぇなぁ」 「戻ったら淹れようと思ってたところです。何の茶葉が残ってましたっけ?」 「玄米茶と玉露」 「じゃあ、玄米茶ですね」 「ああ」  そんな事を言い合いながら、ゲンマとハヤテの二人は、すっかりイビキのことを忘れ去ったようにそのまま背を向けて歩き出した。  だがイビキも、そんな二人の存在を忘れ、自分の腕に付いたハヤテの歯形を見詰めていた。