「先生」  不意に、時雨が不知火医師の方を向いた。  ステージの上で、ギターを弾いている時より、真面目な顔をしている。  時雨が不知火医師の方を向いたのに習い、他のメンバー達も不知火医師の方を向いた。 「疾風を、宜しくお願いします」  そんな事を大真面目に言いながら、時雨は不知火医師に向かって深々と頭を下げる。  同じく、他のメンバー・浅茅と重陽も頭を下げる。  疾風は、一人きょとんとした顔をしている。 「そんな、改まって言われても……担当した患者さんは、最後まで責任持って診ますから。医師として」 「宜しくお願いします」 「……もうそろそろ、昼食の時間なので、病室の方に戻って頂いてもいいですか」 「は、はい……行こう、疾風」 「ハイ……」  時雨に手を引かれ、ハヤテはベンチから立ち上がった。  そして、“LUNATIC”のメンバー4人と、不知火医師は、病室に戻って行った。 「可笑しいな」  5人が病室に戻って数分後。  自分の手首に巻いている腕時計をちらちらと見ながら、不知火医師がぽつりと呟いた。  もう、昼食の時間だ。  この病院では、患者一人一人に看護婦が食事を持って来る事になっている。  昼食の時間だと、正午には昼食を載せてトレイを持った看護婦が来る筈だ。  だが、もう正午は数分過ぎているというのに、まだ来ていない。  ちょっと見て来ます、とだけ言うと不知火医師は病室の扉を開けた。  だが、病室のすぐ外側に、看護婦が数人固まっていた。  その中の一人は、昼食を載せたトレイを持っている。 「……何やってんだよ」 「あ、先生! ちょっと聞いて下さいよー。あたしが疾風さんの担当なのに皆が食事を運びたがるんですよー」 「……まぁ、今日は全員集合だからな……」 「何とか言って下さいよー!」 「じゃ、俺が運ぶ」  と、不知火医師はその困った顔をしている看護婦の手から昼食を載せたトレイをひょいと持ち上げると、そのまま病室に戻った。  あー、先生ずるいですよぉ、という看護婦達の声が聞こえたが、扉を閉めて無視した。 「どうかしたんですか?」 「いや、気にしなくていいですよ」  心配そうな時雨の声に、不知火医師はにっこりと笑ってそう答える。  昼食を載せたトレイを、ハヤテのベッドの格子に組み合わせて立てたテーブルの上に乗せた。 「……これが、病院食………?」  そのトレイに載せられた食事を見て、ぽつりと呟いたのは重陽。  イメージしていた「病院食」というものとは多少違っていたようだ。 「この病院では、基本的に食事制限はありませんから」  不知火医師が、その場にいる全員に説明するように言った。 「……何だか、俺達も腹減ってきたな」  ぽつりと、時雨は呟いた。  すると、重陽と浅茅も同意するように頷いた。 「じゃ、疾風。俺達、飯食って来る」 「残さず食えよ」 「ただでさえお前細いんだからさ、沢山食って元気になれよ」  そう言い残すと、時雨、重陽、浅茅は病室から出て行った。  仲間が出て行くと、ハヤテは食事に付いてきた割り箸をぱきん、と割った。  そして、割った直後の動きで停止し、じっと不知火医師を見詰めた。 「……ゲンマさんは、お昼……食べないんですか」  不知火医師と目が合うと、ハヤテはぽつりと呟くように訊ねた。 「え? ……あ、ああ……食うけど」 「愛妻弁当ですか」 「愛妻って……俺、独身なんだけど」 「……でしょうね」 「え? 何で?」 「別に、何となくです」 「……俺、そんなにモテなそう?」 「いえ。寧ろその逆です」 「……? 変な奴だな……」 「女性にモテるから、寧ろ結婚できないのではないかと思っただけです」 「……それ、どういう意味?」 「別に深い意味は無いです」 「……そう。じゃ、俺これから飯食って来るから」 「午後も、此処に来るんですか」 「えーっと……午後からは外来があるから、入院患者の病室に来れるのは夕方頃になると思うけど」 「……そうですか」 「来て欲しいのか?」 「…………」 「おいおい、無視かよ」 「別に、無理して来なくても結構です」 「無理してないさ。お前ともっと話してみたいし」 「…………」  すると、ハヤテは不知火医師の言葉に返事せずに黙々と食事をはじめた。  肩を竦め、不知火医師は病室から出ていった。  昼食の為、不知火医師が食堂に行くと、窓際のテーブルに、時雨と重陽と浅茅がいた。  それぞれ、食事を載せたトレイを前に置いて食事の最中らしい。  その3人がいるテーブルの傍のテーブルには、看護婦達がいる。  昼食中なのに、その看護婦達はチラチラと時雨達の方を見ている。 「隣、いいですか」  Aランチ定食を載せたトレイを持って、不知火医師はそのテーブルに近付いた。  そのテーブルは、四人掛けだった。 「あ、どうぞ」  水を飲んでいた時雨が、コップから口を離すとそう答える。  その答えを聞いてから、不知火医師は空いている時雨の隣の席に座った。 「疾風の他に、同時に何人ぐらいの患者さんを担当してるんですか?」 「えーっと、合わせて3人ぐらい……ですかね」 「3人……」 「他の医師も大体それぐらいですよ」 「……そうなんですか」 「そういや時雨は医科大学通ってたんだよな」  浅茅が、今思い出したようにそんな事を呟いた。  その言葉で、驚いたように時雨は飲みかけのコップの水を吹き出しそうになった。 「何だよ、急に……」 「何科希望だったんだっけ?」 「いいだろ、そんな事。一年でやめたんだから」 「何でやめられたんですか」  間に入っていいものかと思いながらも、不知火医師は昼食を摂りながらそう時雨に訊ねる。 「いや、その……親の強い勧めで入ったんですけど、俺医者になる気なんて全く無かったんで……」 「俺も親の勧めで医者を目指したようなもんですよ」 「そうなんですか」 「ん、まあ……。でも人の身体切ったりするのが駄目だったから外科系は絶対嫌だったんですけど」 「だから精神科に?」 「……まあ、そんなところです」  あはは、とまるで誤魔化すように笑いながら、不知火医師はAランチ定食のご飯を口の中へ放り込む。 「疾風って、可愛いでしょう?」  突然、そんな事を訊ねられた。  驚いて顔を上げると、重陽が笑っていた。  不知火医師がきょとんとしていると、浅茅と時雨も微笑んだ。 「俺達、あいつの歌声とあの容姿に惚れ込んで仲間に入れ込んだようなもんですから」 「……へえ………」 「でも、幾ら可愛いからって医者の権限で変なことしないで下さいよ」 「あはは」  とりあえず、此処は笑うところだろうと、不知火医師は笑って見せた。  肯定の意味でも、否定の意味でもない。 「俺達はともかく、アリサさんにバレたらマジで殺されますよ。あの人、空手と剣道と柔道の有段者ですから」 「ほえ〜」 「それに、アリサさんは疾風の事、溺愛しちゃってますからね」 「……へえ」 「あんな美人の姉さんがいるだけでも羨ましいのにあんなに愛されて……ホント、疾風って幸せモンだよなぁ」  「なぁ」の部分で、重陽は浅茅と時雨に同意を促す。  笑いながらも、二人は同意を示した。 「俺達にとっても疾風は可愛い弟みたいなもんですし」  確か、“LUNATIC”のメンバーは、ボーカルの疾風以外は皆同い年で25歳だった筈だ。  疾風だけ、23歳だと……。  ミニ昼食会を終えると、四人は揃って病棟へと戻っていった。  時雨、重陽、浅茅は疾風の病室へと。  夕方頃、外来の受診を終えると、不知火医師はまず最初にハヤテの病室へと向かった。  トントン、と数回ノックしたが返事が無かった。  便所かと思いながらも、再びノックする。やはり、返事が無い。  だが、一瞬だけある嫌な想像が浮かび、扉を勢いよく開けた。  其処には、想像していたような光景は無く、ただハヤテがベッドの上に身体を起こしていた。  昼前にメンバー達から受け取ったMDを聴いているのか、耳にイヤホンを付けている。  左手で左耳に付けられているイヤホンを押さえ、右手でペンを握ってノートに何やら書き込んでいる。  どうやら、作詞しているらしい。  一ファンである不知火医師が、その光景をじっと見ていると、その熱い視線に気付いたのか、ハヤテが顔を上げた。  じっと、こちらを見ている。 「……何か、用ですか」  MDの電源を切り、怪訝そうな表情でこちらを見ている。 「だから、医者が自分の担当患者診て何が悪いんだよ」 「……悪いなんて一言も言ってないじゃないですか」  怒ったようにそう答えると、ハヤテは再びMDの電源を入れ、音楽を聴き始めた。  広げているノートに、すらすらと何かを書いている。  そっと近付いて、そのノートを覗いて見てみると、びっしりと何かも字が書かれていた。  こうやって歌詞を作ってるのか、と不知火医師が右手でトリビアボタンを押しそうになっていると。 「何見てるんですかっ」  イヤホンをしてるからか、少し声を大きくしてハヤテは不知火医師に向かって叫んだ。  ガバッと、ノートを隠しながら。 「いや……そんな怒んなくたっていいじゃん」 「………怒ってません」 「怒ってんじゃん」 「…………」  すると、ハヤテはじっと不知火医師の眼を見詰めた。  目が合うと、何故か不知火医師は彼から目を逸らせなかった。  まるで吸い込まれるかのように。 「………可愛いなぁ………」  目が合いながら、ぽつりと不知火医師はそんな事を呟いた。  不知火医師のそんな呟きを聞いて、ハヤテは驚いたように目を見開く。 「重陽さんが言ってた通りだな。改めて見てみるとお前、可愛いな」 「……な……何…言って……」 「いや、可愛いって」  不知火医師の言葉一つ一つに、ハヤテは赤くなる。 「赤くなって……可愛〜い」  ぷに、と不知火医師はハヤテの頬を指先で突付く。  すると、ハヤテはすぐさまその不知火医師の指を掴んだ。  そのまま折るのではないかと思う程、強く掴んでいる。 「あいたたた……痛い、痛いって」 「あまりふざけた事言わないで下さい」 「はい……はい」  不知火医師の返事を聞いて、漸くハヤテは指を離した。  ぷいっとそっぽを向くように、ノートに視線を落とす。 「歌詞、出来たのか?」 「………作った詞を見て、その人の精神状態がわかったりするんですか」 「え? わかる人が見ればわかるんじゃん?」 「わかる人というのは?」 「ん? そりゃ、精神科医とかじゃねぇの?」 「じゃあ、ゲンマさん、わかるんですか」 「そんな、人を精神科医みたいに言うのやめてく………そうだ。俺、精神科医だっけ」 「29でボケたんですか」 「ウルサイ」  不知火医師とのそのやりとりの後、ハヤテは可笑しそうに少しだけ笑った。 「じゃあ、わかりますか。これで……僕の、精神状態」  と、ハヤテは今自分が手にしているノートを、不知火医師に差し伸べてきた。  それは、普通の大学ノートだった。 「ん……見ても、いいのか」 「ええ」 「それじゃ、遠慮無く」  不知火医師はそのノートを受け取り、ぺらっとページを捲って見た。  今まで“LUNATIC”が出してきた曲の歌詞がずらっと書かれている。  全て、作詞者の“疾風”が書いたと思われる、走り書きのものばかりだ。 「ゲンマさんは、“LUNATIC”のファンなんですか」  不知火医師がまじまじとノートに書かれている文字を目で追っていると。  不意に、ハヤテがそう訊ねてきた。 「ん。そうだけど」  不知火医師は、自分の担当患者の質問に、ノートから目を離さずに答えた。 「……誰の、ファンなんですか」 「疾風」 「………じゃあ、そう伝えておきますね」 「誰にだよ」 「疾風に」 「疾風はお前だろ」 「…………」 「何だぁ? 23でボケたのか?」  漸く、不知火医師がノートから顔を上げた。  揶揄するように微笑みながら、ハヤテの顔を見ると。  ハヤテの目が、潤んでいた。   うわ、ヤベ。   何か……俺、悪い事言ったかぁ……?   何か泣きそうになってるし…… 「……あ、あの……俺、何か……悪い事、言ったか……?」 「…………」  慌てたように、不知火医師はハヤテに訊ねる。  だが、ハヤテは無言でふるふると数回首を横に振っただけだった。  その拍子に、ハヤテの瞳に溜まっていた涙がポロ、と一粒だけ零れた。 「あ、ああ……この曲、この曲」  と、話題を変えるのに必死な不知火医師は、ノートのとあるページを開いて呟いた。  その声に、手の甲で涙を拭いながらハヤテが顔を上げた。 「俺、この曲、すげー思い入れがあるんだよ」 「…………」 「この曲が売れてた頃、前付き合ってた彼女と別れたんだよ」 「…………」 「あの女、『あなたより、疾風の方がいい』とか言い捨ててな」 「…………」 「クソ、思い出したらムカついてきた」 「…………」  不知火医師が開いているノートのページには、【BLUE BLUE SKY】の歌詞が書かれていた。  1年程前に、“LUNATIC”が発売した曲だ。    悲しみの空    あなたには見えますか?    誰のものでもないけど    涙で濡れた 空  まだ、歌詞も覚えている。  歌えるぐらいだ。 「ムカついてムカついて、この曲、買ったんだよ」 「……ありがとうございます」 「いや、其処でお礼言われても……」 「あ。すみません……つい……。そんな事より、僕の精神状態は……」 「そ、“そんな事”……!? 俺の失恋話はそんなにつまらないか!?」 「ゲンマさんの話だからつまらないのではなく……全般的に恋愛話には興味ありませんので」 「……そう……」 「ですから、僕の精神状態は……」 「うん。酷く重症だな」 「…………」  不知火医師のその言葉に、ハヤテは驚いたようにはっと息を飲み込み、目を見開いた。  再び、その目が潤んだのがわかった。 「寂しいんじゃねぇの?」 「…………」  今度はその言葉に、ぎくりとした顔を上げる。 「ホラやっぱ。図星だな」 「…………」 「あんなにいい仲間がいるのにな……。それにあんな優しくて美人のお姉さんまでいて寂しいなんて……」 「姉さんは関係ありません」  不知火医師の口から姉の事が出てきた途端、ハヤテの口調が荒くなる。 「……どうして其処まで嫌うかなぁ……」 「あの人は、僕の何もわかってません。ただの偽善者です」 「偽善者?」 「……ほっといて下さい。今は、一人にして下さい」  ぷいっとそっぽを向き、窓の外を見る。  何を話し掛けても、返事は無かった。  仕方ねぇな…、と呟きながら不知火医師は病室を後にした。  翌日。  今日も又、担当患者の様子を見に行こうと、不知火医師が病室に向かっていると。  ナースステーションの前に、一人の女が佇んでいた。  看護婦ではない。  長い黒髪にスーツを着た、目を見張るような美人……月光アリサだった。  アリサは、手に何やら包みを持っている。  それに目をやりながら、足を進めようかどうしようか迷っているようだった。 「どうかしたんですか?」  不知火医師がその細い背中に声をかけると、アリサは驚いたように見開いた目を向けてきた。  だが、不知火医師の姿を確認すると安心したようにほっと胸を撫で下ろした……ように見えた。 「先生……」 「弟さんの病室は、変更してませんよ。203号室です」 「……いえ。もう、姿は、見せないと……約束、しましたから……」  アリサは、辛そうに俯きながらその身体よりも細いと思われる声を出した。  別に女好きと言うワケでも、特別フェミニストと言うわけでもないが、  不知火医師はこんな美人の女を悲しませるのは良くないんじゃないかと、本気でハヤテに説明してやろうかとさえ思った。  アリサは、本気で弟を心配していると言うのに。 「あの、先生……お願いしても、いいですか」 「……え?」 「これ……ハヤテに、渡して下さい」  と、アリサは手に持っていた包みを、白いビニール袋のまま不知火医師にそっと差し伸べた。  何やら、綺麗な包装紙で包まれた長方形の箱のようだった。 「ご自分で、渡さないんですか」 「……先生も、ご存知でしょう? あの子は……私の事、嫌ってますから……」 「……」 「お願いします。これを、ハヤテに渡して下さい。その時はくれぐれも、私からと言う事は絶対に言わないで下さい。  言ったら、あの子、これ……捨てちゃうと思うので」 「そんなに……?」 「あの子……これ、大好きなんです。いつも……変な食べ方でしたけど」  不知火医師の手に、無理矢理その箱を渡すと、アリサはそそくさと階段を下りていった。 「……先生、今の人、誰ですか? すっごい美人……」 「先生も隅に置けませんねぇ」  アリサから受け取った包みを持ったまま、廊下の真ん中で呆然としていると、ナースステーションの中から、看護婦に揶揄された。 「彼女ですかー?」 「バカ、違ーよ。203号室の患者さんのお姉さん」 「203号室って……疾風さんの? へえ、お姉さんいたんだぁ…。すっごい美人でしたよねぇ」 「だろー?」 「だろー…って……何で先生が誇らしげに言ってるんですか」 「あんなモデルみたいな美人と話せるなんて医者冥利に尽きるなと思ってな」 「何言ってるんですか。此処にはこんなに沢山美人の女性がいるじゃないですか。ねぇ?」  その看護婦は、「ねぇ?」の部分で、ナースステーション内の同僚やら後輩やらの看護婦達にそう声をかけた。  それぞれ仕事をしていた看護婦達は、その声で顔を上げて同感だと言わんばかりに全員がこくりと頷いた。 「…………さてと、回診行くかな」 「あー!! 何ですかその反応!!!」  看護婦達の文句を背中に受けながら、不知火医師はそのまま自分の担当患者達の病室へと向かって行った。  まずはじめに、アリサから受け取った包みを渡そうと、ハヤテの病室からだ。 「これお土産」  ノックしてハヤテの返事を聞いてから、病室に入る。  そして、アリサから受け取った包みを、ベッドの上に起き上がっているハヤテに渡した。  ハヤテは、それを無言で受け取る。 「……どなたからですか」 「ん。看護婦。カオリって名前の……。研修でちょっと遠くまで行ったからそのお土産だってさ」 「遠くって? 東京タワーですか」 「……へ? 何で?」 「だってこれ……ひよこまんじゅうじゃないですか」  そう言って、むすっとした顔のハヤテは、白いビニール袋からその包みを取り出した。  確かに、その包みの包装紙には「ひよこまんじゅう」と印刷されていた。 「…知らないのか? ひよこまんじゅうって本当は福岡のお菓子なんだぞ」 「……そうなんですか?」  そう答えながらも、ハヤテの視線はずっとひよこまんじゅうの包みに注がれていた。 「……それ、お前の分だから食っていいんだぞ」 「本当ですかっ」  不知火医師の言葉を聞いた途端、ハヤテの表情がぱあっと明るくなった。  テレビでも雑誌でも、今まで見た事が無いぐらい明るい笑顔を、不知火医師に向けている。 「あ、ああ……」 「わーい」  まるで子供のようなはしゃぎっぷりで、ハヤテはひよこまんじゅうの包装紙をぺりぺり、と綺麗に剥がし始めた。  あっという間に剥がすと、蓋を開け、中のひよこまんじゅうを一つ取り出した。  そして、その手に取った一つのひよこまんじゅうに、まるで再会を懐かしむ親友を見るような視線を送る。 「…………」  脳波調べた方がいいかな、と不知火医師が本気で考えていると、ハヤテはひよこまんじゅうの個別包装を剥がし始めた。  丁寧に剥がして出てきた裸のひよこまんじゅうをじっと見詰めたかと思うと、ハヤテはおもむろに片手で表面の皮まで剥がし始めた。 「おま……っ何やってんだよっ」  驚いた不知火医師は、思わず大声を出してしまった。   だが、それでもハヤテは不知火医師の方を一瞥しただけで、ひよこまんじゅうの表面の皮を捲るように剥がしている。  そして、剥がした皮だけを食べた。 「な、な、な、な……っ何て食い方してんだよ……」 「変ですか?」 「変! いやっ、変ってもんじゃねぇ! 可笑しいっ! 絶対可笑しい!」 「どうしてですか? ひよこまんじゅうはこの表面の皮が美味しいのに……」 「じゃ、じゃあ、表面の皮、食べたらその中の餡はどうすんだよ」 「捨てるわけないじゃないですか。ちゃんと食べます」 「一緒に食えよ!」 「胃に入れば同じです」 「……ま、そりゃそうだけど」  此処で自分が丸まっていいのか、と思いながらも不知火医師は、美味そうにひよこまんじゅう(皮)を食べるハヤテを見ていた。 「ゲンマさんも食べますか?」 「え……っ、い、いや。いい……」 「…………これ、姉さんからのでしょう?」 「えっ」 「さっき、窓の外から姉さんの姿が見えましたから」 「……そう……」 「どうせ、姉さんがこれを持って来て『私からと言う事はハヤテには言わないで下さい』とか言ったんでしょう?」 「見てたのか」 「いえ。ただの勘です」  自分から出したとは言え、会話に姉が出てくると途端にハヤテは機嫌悪そうになる。  だが、表面の皮を全て剥がしたひよこまんじゅう(餡)をじっと見詰めながら、ある事をぽつりと呟いた。 「……わかってるんです。姉さんが、僕を心配してくれている事ぐらい」 「…………」 「わかっていても……いえ、わかっているからこそ、許せない」 「……何を」 「姉さんが、僕にした事です。いえ、僕達に………」 「僕“達”……?」 「僕達は、自分達の力だけで上りつめたかったんです」 「…………」 「姉さんから、聞いたんでしょう? 僕が、姉さんを嫌っている理由」 「……ん……まあ……な…………」  不知火医師の言葉を聞きながらも、ハヤテは今度は皮を剥いだひよこまんじゅうの餡だけを食べる。 「最低な人でしょう? 弟の成功の為に、見ず知らずの男に身体を任せるなんて」  揶揄するように、と言うよりは嘲笑のような笑みを浮かべている。  何か言おうと不知火医師が口を開きかけると。 「そんな事までしなくても良かったのに……」  その途端、ハヤテは悲しそうな表情をした。  今にも、泣き出しそうだ。 「あんな事しなくても、“LUNATIC”は売れると……世の人々に認められると僕は……僕達は信じていました」 「…………」 「無名だった“LUNATIC”が、あの映画を媒体に有名になれたのはそりゃ嬉しいですけど……」 「…………」 「応援してくれていたのは、とても嬉しいと思ってます。でも……やり方が……」 「………お姉さんは、後悔してたよ」 「後悔するぐらいなら、最初からやらなきゃいいんです」 「お前が、歌ってる姿が幸せそうだったから、その夢を叶えたかったんだろ」 「…………」 「ほら、いいお姉さんじゃねぇか。俺貰っていい?」 「…………」  冗談めかして言ってみたが、ハヤテは神妙な面持ちで俯いているだけで、何も答えない。  重苦しい空気が、病室内を支配していた。  不知火医師は、何か言おうと口を開きかけたが、何を言ったらいいのかわからず、噤んだ。 「先生」  不意に、ハヤテがそう呼んだ。  今まで「ゲンマさん」と呼んできたのに。 「お願いが、あるんです」  漸く顔を上げ、ハヤテはじっと自分の担当医師の顔を見詰めた。  その真っ直ぐな視線から、不知火医師は目を離せずにいた。 「お話って、何でしょう?」  病院の屋上で、アリサは不知火医師にそう訊ねた。  弟の見舞いに来たら(正しくは病室に行こうかどうしようか再びナースステーションの前で悩んでいた)、不知火医師に話があると屋上に連れて来られたのだ。 「弟さんに、頼まれたんです」 「……何て?」 「んーと……弟さんの言葉そのまま使わせて頂きますと、  『姉さんと結婚して下さい』  と」 「え……!?」  不知火医師のその言葉を聞き、アリサは顔を赤らめた。 「す……すみません、弟が失礼な事を……っ」 「いえ。一応、弟さんの許可は得たわけですし、俺は別に構いませんけどね」 「え……?」 「あ、いや……冗談ですけど」 「…………」 「弟さんは、あなたが思っている程あなたの事、嫌ってはいないようですよ」 「え……!?」  其処で不知火医師はアリサに、ハヤテが言っていた事を全て包み隠さずに語った。 「あの子が……そんな事を……」 「……何て言うのかなー…………そうそう、シャイなあんちくしょうってヤツですよ、きっと」 「シャイなあんちくしょう……ですか……」  冗談めかして言った不知火医師の言葉を、アリサは真面目な顔で繰り返す。 「それじゃ、弟さんの病室に行きますか」 「え……」  不知火医師の明るい声に、アリサはきょとんとした声を出す。   「で、でも……」 「もう来ないから、と言ったから行けない、とか言うんじゃないでしょうね?」 「…………」  図星をさされ、アリサは言葉につまり、俯いた。 「俺が思うに、弟さんはただ甘えてるだけですよ」 「…………」 「お姉さんに」 「……あたしに……?」  不知火医師の言葉に、アリサはきょとんとした、というよりは本気で驚いた顔をした。 「とにかく、医師として、こちらが指示する治療法には協力して頂きます」 「治療法って……急にそんな事言われましても……」 「治療法と言う程重症ではないんですけどね」  不知火医師に腕を引っ張られたまま、アリサは弟の病室まで連れて来られた。  掴んでいるアリサの腕を離すと、不知火医師はその病室の扉をトントン、とノックした。  ハヤテの短い返事を聞き、不知火医師はアリサに此処にいるように指示すると、病室に入っていった。 「何か用ですか」 「お前にお客さん」 「……どなたでしょう?」 「お前が一番逢いたがっていて、尚且つお前に一番逢いたがっている人」 「ですから、どなたですか」 「入って来て頂けますか」  すると、不知火医師は扉の向こう側にいるアリサに向かって声をかけた。  その声を聞き、アリサはゆっくりと扉を開け、病室に入って来た。  姉の姿を見て、ハヤテはさほど驚いた顔は見せなかった。 「それじゃ、姉弟水入らずでどうぞ」  それだけ言うと、不知火医師は病室から出て行った。  何か言いたげだったアリサを見ない振りして。 「………元気そうね。良かった……」 「…………」  アリサはベッド脇にある屑箱の中に、自分が見舞い品として、不知火医師を通してハヤテに差し入れたひよこまんじゅうの包装紙が入っているのに気付き、微笑んだ。 「ひよこまんじゅう……まだ、あの食べ方してるの?」 「……あのひよこまんじゅう、姉さんからのでしょう?」 「気付いて……たのね……」 「僕にそんな事するのは姉さんぐらいしかいませんからね」  姉の方は見向きもせずに、ハヤテは窓の外を見詰めながら淡々と言う。  窓の外では、夕焼けがはじまっていた。  紅の光が差し込み、部屋もベッドのシーツも、ハヤテの顔も赤く染められている。 「どうして、自分で来なかったんですか」 「……だって……あたしは、もう、来ないって約束……したから……」 「…………」 「それに、あたしからだってわかると、そのひよこまんじゅう、捨てちゃうでしょ?」 「そんな事するわけないでしょ」  姉の言葉に、本気で怒ったような声を出すハヤテ。  その声に、アリサは少しだけ俯いた。 「ひよこまんじゅうは悪くありません」 「………そう……」 「ひよこまんじゅうは最高のお菓子です。日本の誇りです。それを捨てるなんて日本人じゃありません」 「……本当に、あなたは……ひよこまんじゅうの事となると我を忘れるわね」  弟の熱弁に、姉は苦笑する。  ハヤテの熱弁から、ひよこまんじゅうに対する熱意が伝わってくる。 「……あなた、先生に失礼な事言ったでしょう?」 「失礼な事?」 「先生に、あたしと結婚して下さい、みたいな事言ったんでしょ?」 「『みたいな事』じゃなくてそう言ったんです」 「どうして、そんな事を…………」 「…………」 「そういえば、ハヤテにはまだ言ってなかったわよね」 「?」 「あたしね、結婚を約束した人がいるの」 「…………」  姉の言葉に、驚きを隠せない弟。  そんな弟の驚いた顔を見て、姉は照れたように微笑んだ。 「相手、は……」 「あなたの知ってる人よ」 「僕の……知ってる人……?」 「時任さん…………時雨さん、と言った方がわかりやすいかしら」 「え…っ、し、時雨と……!?」 「その反応から見ると……本当に知らなかったのね……」 「……その事は、重陽と浅茅は?」 「知らないと思うわ。時任さんが言ってなければ。でも、あなたも知らないのなら、きっとその二人も知らないと思う」 「…………」 「あの人達が、あなたを仲間外れにする訳無いでしょ。あたしは、あの人達だから、あなたを任せたようなものよ」 「…………」  そう言ってアリサは、左手で右腕を擦った。  その左手の薬指には、見慣れぬ指輪が嵌めてある。  きっと、時雨の左手の薬指にも、お揃いの指輪が嵌められているのだろう。 「式は、いつですか……」 「今はまだ、式は挙げないつもりよ。あなたが元気になったら、挙げようかなと考えてるんだけど」 「……そうですか」 「そうそう……」  と、アリサは其処で、持っているバッグの中から何やらA4サイズのパンフレットを何冊か取り出した。  そしてそれを、ハヤテの前に見せた。  全て、ウエディングドレスや挙式会場のパンフレットだ。 「どのドレスが似合うと思う? 会場は何処がいいかしら?」 「…………そういうのは、時雨と相談したらいいんじゃないんですか……」 「時任さんより、あなたの方が冷静に分析してくれそうだもの」 「…………」  ハヤテが何か言おうと、口を開きかけた、その時だった。  不意に、病室の扉がノックされた。  アリサはちら、と扉の方を見る。  ハヤテは、扉に向かって短く返事をする。  すると、扉が開いて、姿を見せたのは、時雨、重陽、浅茅の3人だった。 「あ、アリサさん……」 「お久し振り」 「来てたんだ」  3人が、それぞれアリサに向かって短く挨拶する。  アリサの目と、時雨の目が一瞬合った。  そして、時雨がこくりと一度だけ頷くと、口を開いた。 「皆、聞いて欲しい事があるんだ」  そして、アリサと時雨の婚約について、話し出した。 「ええッッ!? あ、あ、アリサさんと、し、時雨が……婚約!?」 「おめでとうございますー」  ショックを受けたような重陽と、ぱちぱちと拍手しながら心から祝福している浅茅。  嬉しそうに微笑み、頬を赤らめながらアリサは時雨に少し凭れる。  そんなアリサの細い肩を、時雨はそっと片手で抱き寄せる。 「こんなところでラブシーンですか、お二人さん」 「イチャつきたいなら、中庭か屋上でドーゾ」 「バ…っ、ち、ちが……ッッ」  重陽と浅茅のからかいに、真っ赤になる時雨とアリサ。  そんな四人を、ハヤテは無表情で眺めていた。  まるで、自分とは無関係の世界を眺めるように。  翌日。 「いつ、僕は退院できるんですか」  検温の為回診に来た不知火医師に、ハヤテは訊ねてみた。 「もうすぐできるさ」 「もうすぐって、具体的にいつですか」 「……さあ。まだ決めてない」 「決めてないって……」 「そういうもんなんだよ、こういうトコは」 「…………」 「でも、もうすぐ本当に退院できるさ。そんな顔すんなって」  にっこりと微笑みながら、不知火医師はまだ不安げな表情をしているハヤテの頭に、撫でるようにぽん、と手を置いた。  だが、まだハヤテは不安げな表情をしている。 「ゲンマさんは、姉さんのこと……どう思ってるんですか」  俯いていたハヤテが、まるで一段決心するように顔を上げ、自分のすぐそばにいる不知火医師の顔をじっと見詰めながらそんな事を、訊ねてきた。 「何だ、いきなり」 「どう思ってるんですか。結婚、したかったんですか」 「そうだなぁ…向こうも許可してくれたらな。ちょうど今、俺フリーだし」 「…………」 「でも時雨さんと結婚すんだろ、お前の姉さん」 「……知ってるんですか」 「昨日の帰り廊下でバッタリ逢ってねぇ。二人から聞いたよ」 「……そうですか」 「何でそんな顔すんだよ」 「…………僕は、どんな顔してるんですか」 「すっげぇ寂しそうな顔」 「寂しいんだから、仕方無いじゃないですか」 「ほう……随分と素直になったもんだ……。それはお姉さんが結婚するから、寂しいのか?」 「それは全然違います」 「……じゃあ?」 「…あなたには、関係無いでしょ」 「関係あるね。俺は、お前の主治医だぞ」 「僕はそんな事認めてません」 「でも俺の事、『先生』って呼んだじゃねぇか」 「言葉の綾です」 「…………可愛くねぇ…………」 「可愛く無くて結構です」  ハヤテは、ぷいっとそっぽを向き窓の外に視線を泳がせた。 「退院、したくないです」  ぽつりと、ハヤテは突然そんな事を呟いた。  冷たい風が吹いてくるので、開いている窓を閉めようとしていた不知火医師は思わず、聞き返す。 「……何で。あんなに退院したがってたのに」 「気が変わったんです」 「……気が変わったって……どうしてまた」 「…………家に、帰りたくないです」 「何で」 「…………」  不知火医師が繰り返す聞き返すと、まるで答えたくないようにハヤテは俯いた。  まるで、拗ねたような顔をしている。 「僕の居場所なんて、何処にもないんです」 「無いなら、作ればいいだけだろ」 「作ろうと思ったって簡単に作れるものじゃないでしょ」  不知火医師の言葉に、ムッとしたように顔を上げ反論する。 「居場所が無いから、家に帰りたくない。家に帰りたくないから、退院したくない…」 「そうです」 「甘えたさんだな」 「な……っ」 「なら、退院しても家に帰らなきゃいいじゃん」 「じゃあ、何処に行けと言うんですか」 「例えば……俺ン家とか」 「…………」 「あ。嫌ならいいけどさ……」  と、今度は不知火医師が拗ねたような顔をする。  そんな不知火医師の表情を見て、ハヤテはフッと微笑む。 「何で今、笑ったわけ?」 「え…今の、笑うところじゃなかったんですか?」 「…………」 「本当に、行っていいんですか?」 「ああ、勿論。大歓迎だぜ? 毎晩飲めや歌えやの大宴会するぞ」 「……僕には、歌えと?」 「おっ、わかってんじゃん」 「…………」 「歌が家賃代わりって事で」 「……本当の本当に、行っていいんですか?」 「だから、いいって言ってんだろ。何だよ、嫌なのか?」 「……本当に、行きますよ?」 「ああ、来い来い」 「……で、何処に住んでるんですか」 「この病院の目の前にある独身寮」  そう言って、不知火医師は病室の窓から見える白い小さなマンションのような建物を指差した。  それが、不知火医師が住んでいる独身寮らしい。  数日後。  ついに、退院日がやって来た。  病室の後片付けをしているハヤテとアリサと時雨の元へ、看護婦数名が花束を持ってやって来た。  不知火医師の姿は、無い。 「ゲンマさんは?」 「……え? あ、ああ、不知火先生なら今診察中なので……」 「…………そうですか」 「これ、先生からです」  と、一人の看護婦が白い洋形サイズ封筒をハヤテに手渡してきた。 「何でしょう?」 「さあ……何でも、退院する疾風さんに、絶対にコレを渡しておけって命令されたので」 「命令…」 「ええ。あの人、何でも命令口調で言うんですよねぇ。顔が悪かったらソッコー嫌われてますよ」 「…………」 >>>3へ続く