「何、先生からのラブレターですか?」  不知火医師からだというその封筒の中身には、病院の名前が印刷されたメモ帳で「202号室」という走り書きがあった。  一緒に、鍵も同封されている。  どうやら、202号室が不知火医師の住居で、その鍵が合鍵らしい。 「…何、その鍵?」  アリサが、ハヤテの掌に転がった鍵を見て怪訝そうな声をかけた。  だが、そんな姉の言葉には返事をせず、メモ帳と鍵を封筒の中に入れ、ポケットに押し込んだ。 「何でもありません」 「…………そう」 「じゃあ、もうそろそろ行くか」  時雨の声で、アリサとハヤテは病室を出た。  病院から出ると、看護婦数人が見送りに来てくれた。 「お大事に」 「通院の日は、ちゃんと来て下さいね」 「ありがとうございました」  看護婦達の言葉に、アリサはにっこりと微笑み、ぺこりと頭を下げながら挨拶をした。  その後ろで、ハヤテも少し慌てたように軽く頭を下げる。  病院の裏側にある駐車場に停めてある、時雨の車に三人は乗り込んだ。  運転席に時雨、助手席にアリサ、後部座席にハヤテ。 「何か食ってくか?」  暫く車を走らせても、何の会話もない姉弟を見て時雨が気を利かせたように尋ねてきた。 「いえ……すぐ家に帰りたいです」 「……そっか。そうだよな。じゃ、帰るか」  微笑みながらそう言い、時雨はアクセルを踏み込んだ。 「懐かしいでしょ」  家に入ると、アリサは嬉しそうに弟にそう言った。  そして、持って帰って来た荷物を持って、奥へと入っていった。  恐らくは、洗濯物を洗濯する為だろう。  だが、ハヤテにとってこの家はもう自分の居場所がなかった。  入院した時から変わらない家に、自分の部屋。  それなのに、この家の中に自分の居場所は、何処にもないような気がしてならなかった。  姉とその婚約者が住む家。  自分は、いてはいけないような気がする。  自分の家でもあるハズなのに。  そう思うと、無意識のうちに俯いていた。  顔色も、青白くなっていた。  時雨が、心配そうに肩に優しく手を置き、声をかけた。 「ハヤテ…大丈夫か?」  “LUNATIC”のメンバーの一員としての「疾風」ではなく、婚約者の弟…つまりは自分の義弟に対する「ハヤテ」という呼び方だった。  姉の婚約者の顔は見ないようにして、ハヤテはそのまま自分の部屋(だった部屋)へと向かって行った。  その中は、入院前過ごしていた部屋と、何ら変わっていない。  机、ベッド、本棚、箪笥、壁に掛けられた時計とポスター……。  何も、変わっていない。  少し、埃がたっているようだったが、何も変わっていない。   この家の何処に、自分の居場所があるというのだろう……  夜。  姉と姉の婚約者が寝静まった事を確認すると、荷物を纏めて家を飛び出した。  「心配しないで下さい」と、走り書きの書置きを残して。  向かった先は、コートのポケットの中にある鍵の持ち主の部屋。  来いと言われたから、行くだけだ。  そんな言い訳を考えながら、病院へと向かって行った。  鍵と一緒に封筒に入っていたメモを握り締めながら。   202号室……202号室……  何度も口の中で反芻しながら、その部屋を探した。  2階だ。  そう気付くと、階段を登っていた。  階段を登って2階へ辿り着くと、近くに誰もいない事を確認して、廊下を進んだ。  まるで、泥棒に入ったようだ。  ……夜、学校に忍び込んだ時もこんな感じがする。  202号室の前に辿り着くと、ポケットの中から鍵を取り出した。  扉の隙間からも、窓からも灯りは見えていない。  まだ帰っていないか、それとも寝ているか……。  前者だったらまだいい。  もし、後者だったら……。  その時は、その時だ。  鍵を開け、扉を開けると真っ暗だった。  誰もいないようだ。  部屋に入り、扉を閉める。  一歩足を踏み出してみると、何かが足に触れた。  どうやら、脱ぎ捨てられたシャツらしい。  暗闇に目が慣れてくると、部屋の様子がわかってきた。  その部屋は、信じられないほど散らかっていた。  漸く夜勤が終わり、立ち寄った近くのコンビニで簡単な夜食を買うと、自分の家へと向かった。  自分の家、といっても勤務先の病院のすぐ傍にある独身寮である。  洗濯機も、掃除機も、炊飯器もあると言うのに此処何ヶ月か使った記憶が無かった。  自炊は出来る自信はある。  料理のレパートリーだって、其処等辺にいる女よりは多い自信だってある。  だが、料理は出来るが、しないだけだった。  仕事が忙しい事も理由の一つだろう。  朝は、簡単にパンを焼いて食べるだけ。  昼は、病院の食堂。  夜は、コンビニ弁当。  最近、そんな日々が続いていた。 (今日もコンビニ弁当か……帰ったら裸エプロンの可愛い女の子でも迎えてくんね〜かなぁ……)  年齢らしく、そんな事も思っていたりする。  だが、勿論口には出さない。  そんな事あり得ない、とわかっている。  202号室の前に来ると、部屋から灯りが零れている事に気付いた。 (ど…っ泥棒!? …いや、泥棒がわざわざ目立つように明かりつけるわきゃねぇわな……)  ポケットから鍵を取り出しながら、そんな事を考え込む。 (まっ、まさか…っ)  慌てて鍵を開け、扉を開けると。 「あ。お帰りなさい」  ハヤテが、無表情で其処にいた。 「…………」 「お風呂、沸いてますけど」 「あ、どうも……」 「ご飯、炊けてます。お味噌汁は温め直して下さい」 「はあ、どうも……」 「洗濯物も、洗濯しておきました」 「何から何まで……」  コンビニの白いビニール袋を持ったまま、不知火医師はぺこぺことハヤテに向かって頭を下げた。 「あれ!? 今日、退院したんだよな?」 「そうですけど」 「何で今日来た?」  あからさまに驚いている不知火医師の顔に、ハヤテはムッとした。 「自分から来いと言ったくせに……!」 「あっ、いや……っ、その…まさか今日来るとは思わなかったわけで…」 「…………」  言い訳しながら、不知火医師は持っているビニール袋を卓袱台の上へ置いた。  すると、その袋の中身を、ハヤテは無遠慮に覗き込んだ。  そして、それがコンビニ弁当だと気付くと、顔を上げて不知火医師を睨んだ。 「何でこんなもの買って来るんですか」 「何でって……俺の飯」 「医者の癖に自分の健康に気を使ってないんですか」 「いや……そういうわけじゃなくて……作るの面倒だし」 「…………」 「でも今日はお前が作ってくれたんだろ? そっち食うわ」 「…折角買って来たんですから、このお弁当食べたらどうですか」  まだ怒っているような言い方で、ハヤテはぷいっとそっぽを向いた。  すると、その視線が窓に移った。  つい、不知火医師も窓へ視線を移した。 「何怒ってんだよ」 「怒ってません」  その言い方が、すでに怒っているようにしか聞こえない。 「ん〜…あっ、何作ってくれたんだ?」  ハヤテの機嫌を直そうと、不知火医師は台所に入って鍋の中身を覗き込みながらそう訊ねる。 「冷蔵庫にカボチャがあったので煮物作りました。あと、お味噌汁を」 「おっ、よく俺の好きな物知ってたな」  そう言って、まるで子供のような明るい笑顔をハヤテに向ける。 「好きな物…?」 「あれ。言った事無かったっけ。俺、カボチャの煮物好きなんだよ」 「……そうなんですか。初耳です。冷蔵庫の中にカボチャがあったから作っただけです」 「そ、そう…」 「……食べないんですか?」  きょとんとした顔を、不知火医師に向けるハヤテ。  卓袱台の上のビニール袋を不知火医師の方へ寄せながら。 「ではでは、天下の疾風様の手作りのカボチャの煮物でも食おうかなっと」 「思う存分食べて下さい」 「……あ。ああ……」  まだ怒ってんのかな……と思いながら不知火医師はハヤテの顔をチラチラと見る。  そんな不知火医師の視線に気付いているのか気付いていないフリをしているのか、ハヤテは相変わらずそっぽを向いている。  煮物と味噌汁の鍋をそれぞれに火にかけると、不知火医師はハヤテの真正面に座る。  そして、じっとハヤテの顔を見詰めた。 「何、人を顔をじろじろ見るんですか」 「いいだろ、見たって減るもんじゃあるまいし」 「………火、見てて下さい」 「大丈夫大丈夫。ピピッとコンロだから。自動的に止まってくれんの」 「…………」  ハヤテは無言で、不知火医師に背を向けた。  負けじと、不知火医師はハヤテの正面に回り込む。 「人の顔じろじろ見ないで下さい。不愉快です」 「がーん」  不愉快、とハヤテの口から零れた瞬間、不知火医師はショックを隠しきれない顔をした。  その顔を見ると、ハヤテは悪いことを言ってしまったと逆にショックを受ける。 「だってさ、だってさ、憧れの、あの、疾風が俺のこの小汚い部屋にいるんだぜ? そりゃじろじろ見るだろ」 「……お言葉ですが」  不知火医師の言葉に、意を決したようにハヤテは口を開く。 「小汚い部屋、ではなく、ただの汚い部屋、の方が正しいかと……」 「がーん」  まるで子供のような不知火医師の言葉に、とうとう我慢できなくなったようにハヤテは吹き出した。  可笑しそうに、くすくすと笑っている。  その笑顔と笑い声に、不知火医師も嬉しそうに微笑んだ。 「そうやってずっと笑ってればいいのに」 「え……っ」 「此処にいて、お前がずっと笑ってられるのならそれでいいじゃん?」 「…………」  不知火医師の尤もらしい発言に、ハヤテは黙りこくってしまった。  首を傾げながら、そんなハヤテの顔を覗き込もうとする不知火医師。  だが、今回は顔を背けないハヤテに、少し焦る。 「……俺、誘拐犯にならないよな……?」 「僕は未成年じゃありませんから大丈夫だと思います」 「でもなぁ……お前の姉さん、すっげえ心配すると思うけどなぁ……」 「姉には時雨がいますから」 「でも、血が繋がってるのはお前だろ」  不知火医師の言葉に、ハヤテは俯いて黙る。  まるで、拗ねたような顔をして。  そんなハヤテの顔を、不知火医師がそっと覗き込もうとした瞬間、ばっと顔を上げた。  荷物を詰め込んで持って来た驚くほど小さなボストンバッグを持って無言で立ち上がる。  そして無言のまま洗面所へと入っていった。  呆気に取られた不知火医師はすぐに立ち上がり、ハヤテが入っていった洗面所の扉を勢い良く開けた。  すると、其処には服を脱ぎかけたハヤテがいた。  呆気に取られ、震える指でハヤテを指しながら、不知火医師は震える声を出す。 「な、な、な、何を……」 「お風呂に入るんです」 「……あ……そうですか……」 「出てって下さい」 「はい……失礼しました……」  ハヤテにピシャリと言われ、不知火医師は後退りしながら洗面所を出た。  食事の後片付けをしていると、風呂からハヤテが出てきた。  どんな服で出てくるのかと思えば、浴衣姿になっていた。  思わず、その姿に釘付けになる。 「……何見てるんですか」 「いつもその格好で寝てるのか?」 「家では、まあ……そうですけど」 「へえ……ふうん……そーなんだーへぇ……」 「な、何ですか……」  不知火医師に、無遠慮にじろじろと寝巻きである浴衣姿を見られ、思わずハヤテは自分の身体を抱き締める。  同時に、少しだけ身の危険も感じたようだ。 「浴衣はいいなぁ……やっぱり日本人は浴衣だよな」 「はあ……」 「じゃ、俺も風呂入るかなっと」  と、不知火医師も洗面所へと入っていこうと、扉に手を掛けた。  すると、何かに気付いたように振り返ってきた。 「あ、先に寝てていいから。そっち奥が寝室」  そう言って奥を指差す。  ハヤテがそっちを向き、また不知火医師の方へ視線を戻すと、もう洗面所の扉は閉まっていた。  不知火医師が指差した方へ、歩き出してみた。  其処には、書斎と寝室が合わさったような部屋があった。  壁一面に本棚があり、扉の向かい側に机がある。  その本棚には、素人には理解不能な専門書がある。  無論、精神病やら精神科についての専門書ばかりだ。  緑色の、ハードカバーの本を一冊手にとり、ぱらぱら……とページを捲って見た。  だが、やはり理解不能な内容だ。  こんな書物を、あの人は理解して読破したのだろうか、とふと思う。  つい先ほどまで、脱ぎ散らかしたシャツやら下着やらが散乱していたベッドの上は、今は綺麗だ。  ハヤテが、片付けたから。  白い枕。  白いシーツ。  薄いブルーの掛け布団。  そっと、手を触れてみた。  温かい筈は無い。  だが、このベッドで毎日、あの人は寝ているのだろう。  振り返り、まだ不知火医師が風呂から上がってこない事を確認してから、シーツに顔を近付けた。  汗のような、臭いがした。  これがいつも消毒液で消臭しているであろう、不知火医師の本当の臭いなのかと。  何故かその臭いは、とても安心できる臭いだと思った。  ベッドにも垂れながら、無意識のうちに目を閉じていた。  そして、そのまま眠りについてしまった。  ハヤテがその事に気が付いたのは、その部屋に風呂上りの不知火医師がやって来た時だった。  温かい掌で肩を叩かれ、ゆっくりと目を開けると目の前には見知らぬ部屋。  温もりに満ちた掌の主は、つい先日まで入院していた病院先の主治医。 「眠いなら、そのベッドの上で寝てていいから」 「ん……」  目を擦りながら、ハヤテはベッドから起き上がろうとした。  だが、不知火医師に肩を優しく押さえ付けられる。 「だから寝てていいって」 「でも……そしたら……ゲンマさんは……」 「俺の事は気にしないでいいから」  にこやかにそう言いながら、不知火医師は寝惚け眼のハヤテを軽々と抱き上げた。  急に体が軽くなった感覚に陥ったハヤテは驚いたように目を開いた。  そして、気が付いたらベッドの上に横になっていた。  そっと、優しく掛け布団を体の上に掛けられる。  ぽんぽん、とまるで幼い子供にするように頭を撫でられる。  その掌は、まだほんのりと温かかった。  その手の主の顔を、じっと見詰める。 「このベッドは……ゲンマさんのじゃ……」 「いいからいいから」 「ゲンマさんは、何処で寝るんですか」 「ん〜ソファの上かな」 「そんな……っ」  不知火医師の発言に、驚いたように上半身を起こした。  だが、そんなハヤテの体を、不知火医師は再び優しくベッドの上に倒す。 「いいからいいから」 「…………っ」  拗ねたような顔をして、ハヤテは不知火医師を見上げる。  少しだけ睨みながら、不知火医師の、思っていたよりは細い手首を掴んだ。 「……何だよ」 「一緒に、寝て下さい」 「はあ!? ガキじゃあるめーし。何、一人じゃ寝れないのか?」 「…………そうです」 「う……マジで?」 「一人は怖いです」  訴えかけるような、吸い込まれそうな目で見詰められ、思わず不知火医師はその目から目を逸らせずにいた。  だが、今にも泣き出しそうなハヤテの表情に対し、自分の手首を掴んでいる手の力は強くなっていった。 「わ、わかったわかった」  漸く観念したが、不知火医師の手首を掴むハヤテの手の力は全く弱まらない。  弱まらないまま、手を引いてくる。 「離せって」 「嫌です」 「一緒に寝るから!」 「じゃあ、早く」 「あっちの部屋後片付けしてくるから」 「そんなの明日して下さい」 「電気点けっぱなしなんだよ!」 「じゃあ、早く消してきて下さい」  すると、すんなりとハヤテは手を離した。    部屋の電気を消してハヤテが横になっている寝室に戻ってくると、ベッドの上でハヤテは静かに寝息をたてて眠っていた。  少し腹立たしい気にもなったが、そのあまりにも気持ち良さそうな寝顔に怒りも吹っ飛んだ。  そっと、ハヤテが寝ている布団を捲り、中に入り込んだ。  だが、入り込んで気が付いたが。  どっちを向いて寝ればいいんだ?  向き合って寝るのは何となく気恥ずかしいし、  かと言って背を向けたら朝にでも「何で背を向けたんですか」と怒るだろう。  少し迷ったが、すぐに決心し、すやすやと気持ち良さそうに寝ているハヤテに向き合う形で横になった。  すう、すう、と小さな寝息が聞こえてくる。  いびきはない。  歯軋りもない。  楽と言えば、楽だった。  元々は、一人用のベッド。  まあ、一人用のベッドにしては少しは大きめのサイズだろうが。  それでも、一人用のベッドである事には間違いは無い。  二人で寝る事を想定していないのだから、大の大人が二人並んで寝たら流石に窮屈だ。  手を伸ばさなくても、隣人に触れる事が出来る。  今、不知火医師のすぐ隣で寝ているのは、自分の担当患者で。  そして、自分がファンであるバンドのボーカリストで。  だが、不思議と実感が沸かなかった。  今目の前にいるのは本当に「LUNATIC」のボーカルの疾風なのか。  あの“疾風”がこうも赤の他人に無防備に寝顔を見せるものなのか。  少なくとも、「LUNATIC」のいちファンである不知火医師が知っている“疾風”は、  無愛想で無表情。  けれど何処か可愛げがあって……  その歌声と、歌唱力にはかなりのものがあって。  時々……本当に、ごくたま〜に見せる笑顔がたまらなくて。  ごくたま〜にしか見せないからこそ、たまらなくて。  そんな事を、目の前の寝顔を見詰めながら考えていた。  無意識のうちに、手を伸ばし髪に触れてみた。  思っていたよりずっと柔らかい黒髪が指と指の間からするりとすり抜けていく。  それと同時に、優しい香りが鼻腔をくすぐる。  髪は少し濡れていた。  恐らく、洗ったのだろう。  となると、やはり風呂場にあるあのシャンプーを使ったのだろうか。  俺が使っているのと同じ、シャンプーを?  マツモトキヨシで安売りしていたから買った、あの安物のシャンプーを?  ……というより、俺がいつも使っているシャンプーを?  自分で使っていても気付かなかったが、あのシャンプー、こんなにいい匂いがするもんなんだ……  それとも、こいつが使ったからこうもいい匂いに感じるものなのだろうか。  ふと、視線を感じた。  髪にばかり気を取られていたからか、ハヤテが目を覚ましてじっとこちらを見ているのに気付かなかった。 「あ…悪い。起こしちまったか……」 「…………」  不知火医師の言葉に、機嫌悪そうな顔をしている。  どうやら、かなり眠いらしい。  不知火医師の声が聞こえたかどうかはわからないが、ハヤテは再びゆっくり目を閉じた。  そして、すぐにすう、すう、という小さな寝息が聞こえてきた。  寝つきが早いヤツだ。  翌朝(とは言っても昼近い時間だが)、目が覚めると隣で寝ていた筈のハヤテがいなくなっていた。  ぬくもりも残っていない。  慌てて起き上がり、寝間着姿のまま寝室を飛び出すと、 「あ。おはようございます」  昨日とは微妙に違う服に身を包んだ、ハヤテがいた。  相変わらずの、無表情だ。 「あ……おはよう」 「昨日の残りご飯をリゾットにしました」  と、ハヤテは鍋掴みで鍋を卓袱台の上の鍋敷きの上に載せる。  その鍋の中には、クリームシチューのようなものが入っていた。  お玉でその手作りらしいリゾットを、二つのお茶碗に平等によそう。  どうぞ、という小さな声とともに一つのお茶碗を不知火医師の目の前に置く。  レンゲを添えられた茶碗と、それを作った人物を交互に見た。 「……何ですか」 「お前、料理上手いんだな」 「別に煽てても何も出ませんよ」  無表情で素っ気無く答えながら、ハヤテは手作りリゾットを一口啜る。  その様子を、不知火医師は無言のままじっと眺めていた。  片手で頬杖をつきながら。 「人の顔見てないで食べて下さい。今日も仕事でしょ」 「今週夜勤だしー」  そう言って、まるで悪戯小僧のように笑う。  だが、ハヤテはそんな不知火医師の笑顔を無視し、黙々と食事を続けている。  仕方無く、不知火医師も食事を始めた。  不知火医師が漸く食事を始めると、ふと、ハヤテが食事していた手を止めて不知火医師の顔をチラリと見た。 「……美味しいですか?」 「ん? あ、ああ。俺の為に作ってくれたんだろ? そう思うとますます美味く感じるな」 「別にゲンマさんの為だけに作ったわけじゃないんですけど」 「何ー!?」  不知火医師のそんな反応に、ハヤテはぷっと吹き出し、くすくすと笑い出した。  そんなハヤテの笑顔を見て、不知火医師もつられたように笑い出した。  二人は、暫くの間笑い合っていた。  食後、ハヤテは食べ終わったお椀やらレンゲやら鍋やらを流しに入れ、洗い始めた。  不知火医師は、そんな後ろ姿をじっと眺めていた。   「食器洗い機あるだろ」 「こうして手で直接洗うのが好きなんです」 「手、荒れるぞ」 「皮膚が強いから大丈夫です。それに終わったらクリーム塗っておきます」 「…………」 「それに……僕は居候ですから、これぐらいします」 「そ……そうか? 悪いな……」 「……普通、そういう時はしなくていいって言うもんじゃないんですか?」 「え? でも、洗うの好きなんだろ? 好きならさせてやる方が……」  思いも寄らないハヤテの言葉に、きょとんとしながらも不知火医師はそう反論する。 「……そうですか。それがゲンマさんなりの優しさなんですね」 「ほへ?」 「自覚がないならいいです」 「ちょ……っ、それ、どういう意味だよ?」 「ノーコメントです」 「…………」  ハヤテの言葉に、首を傾げる。  腑に落ちなかったが、それ以上何も言わなかった。  いや……何も、言えなかった。  何を言ったらいいのかがわからなかった。  ソファに腰をおろして新聞を読んでいると、ソファの前の小さなテーブルに、茶色い液体が注がれ湯気が立っているティーカップが二つ、置かれた。  新聞から顔を上げると、隣にハヤテが座ってきた。  一つのティーカップを大事そうに、両手で包むように持って。  まるで、冷たい掌を温めるかのように。 「寒いか?」  その仕草が、とても寒がってそうに見えたので、思わず不知火医師はそう訊ねた。  その問いに、驚いたようにハヤテは顔を上げ、無言で首を数回横に振る。  まるで、拗ねているような顔だ。  そういえば、こいつはさっきからこんな、拗ねたような顔ばかりしている。  もしかしたらこの顔が、こいつの一番自然な顔なのかもしれない。  新聞を広げながら、隣に座っているハヤテの横顔をちらちらと見ていると、すすす……と、ハヤテが擦り寄ってきた。  何かと思えば、ハヤテは不知火医師が広げている新聞の内側のページを見ようとしているらしかった。  その、不知火医師に向けられたページは社会面だった。  今まで新聞しかなかった不知火医師の目の前に、気が付けばハヤテの後頭部しか見えなくなっていた。 「……読みたいのか?」 「いえ、別に」  不知火医師に声を掛けられると、ハヤテは素っ気無くそう答える。  そう答えながらも、両手に包んでいるティーカップの中の紅茶を啜りながら、新聞を見ている。  小さな溜め息をつき、新聞を畳む。  すると、今まで後頭部しか見せていなかったハヤテが振り返ってきた。  やはり、拗ねたような顔をしている。 「読みたいならホラ」 「別に読みたいわけじゃありません」 「じゃあ何だよ」 「ゲンマさんが、新聞を読んでるのを邪魔したかっただけです」 「…………はあ?」  ハヤテの言葉に、不知火医師がきょとんとすると、ハヤテはしてやったり顔で微笑む。  初めて見る顔だった。 「何で」 「新聞より、僕を見ていればいいんです」  ……はあ?  何だそりゃ。  これ、俗に言う『お姫様発言』?  ツンデレ?  ハヤテの言葉に、不知火医師はますますきょとんとする。  じっとハヤテの顔を見ていると、そんな不知火医師の視線から外れるように、紅茶を飲み始めた。  今度は、ちゃんとコップの取っ手を持って。 「今の、どういう意味だよ」 「別に」 「…………」  ハヤテの言葉に、不知火医師は無言でじっと彼の顔を見ていた。  だが、ハヤテの方は不知火医師の視線に気付いていないのか、気付いているが無視しているのか、そっぽを向いている。  飲み干したカップを持ったまま、台所へと入って行った。  そしてそれを、流しに入れる。  そのまま洗うのかと思えば、流しに入れただけで台所から出て行った。 「今日、夜勤じゃないんですか」 台所から出てきたハヤテは、相変わらずの無表情でそんな事を不知火医師に言う。 その言葉を受け、不知火医師は壁にかけられた時計をちらりと見る。 まだ時間は大丈夫だ。 あと、1時間ぐらい… 「まだ大丈夫」 「……」 「今夜は一人で寝れるか?」 からかうように不知火医師は言う。 すると、またハヤテはすねたような顔をする。 「無理です」 まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった不知火医師は少し慌てた。 「無理ですって…」 「僕も一緒に行きます」 「それこそ無理だろ」 「……」 不知火医師の返答に、またすねたような顔をするのかと思えば、今度は怒ったような顔をした。不知火医師を 睨んでいる。ハヤテの睨みを受け、少し慌てた様子で不知火医師は言う。 「昼間なら大丈夫だろうけどさ。夜勤だぜ?」 「其処を何とかして下さい」 「何とかって…」 「無理なら、いいです。忍び込みますから」 「オイ!」 「僕は本気ですから」 「……」 「……」 今度は、無言でじっと不知火医師の顔を見つめてきた。真っ直ぐな瞳だ。 「…お前が俺のとこに来てるなんて誰も知らないんだぞ?いきなり来たらどう思われるか…」 「そんな事どうでもいいです」 キッパリ。 「どうでもいいって…俺の身にもなってくれよ」  困りきった様子で、不知火医師は言う。だが、ハヤテは平然とした顔をしている。何でそんな事で困るのかが 全くわかっていないかのように。 「時間…いいんですか?」  時計を見てハヤテが尋ねる。  そうこうしているうちに、行かなくてはいけない時間になってしまった。  行かなくてはいけないが、このまま行ってしまえばついて来てしまうような気がする。  準備を終え、玄関へと向かう。 「絶対、来るなよ」 「…何でですか」  不知火医師の言葉に、ハヤテは少し頬を膨らます。 「面会時間は午前11時から午後7時までって決まってんの」 「…忍び込むのに、そんな話関係ありません」 「やめてくれ…」  ハヤテの言葉に不知火医師は頭を抱える。  全く、面倒な患者を受け持ってしまったものだ。 「ゲンマさんには迷惑かけません」 「お前のお姉さんに連絡するぞ」  最強の脅し文句だと思い、言ってみる。 「勝手にすればいいじゃないですか。そしたら僕はゲンマさんに拐われたと言い張ります」 「やめてくれ…」 「じゃあ、行ってもいいですね」 「……勝手にしろ」  不知火医師はそう言い捨て、部屋を出て行った。  怒っていたようだ。  数時間、夜勤の仕事をこなしていたが、あんなに行くと言い張っていたハヤテが全くあらわれない。  内心いつ来るかとビクビクしていたが、杞憂だったのかも知れない。  安心して病室へ見回りに行く。  数十分後、ナースステーションに戻ってくると、中が何やら華やいでいた。  数人のナースが誰かを囲んでいるようだ。  中心にいるのは…  ハヤテだった。  それに気付いた瞬間、不知火医師は思わずその場にズッコケるように崩れ落ちてしまった。  そのズッコケで、ナースステーション内のナース達も、ハヤテも、ゲンマが戻ってきた事に気付いた。  ハヤテは顔を上げてゲンマと目が合うと、まるで飼い主を見付けた飼い犬のように、ぱあっと表情を明るくした。 「あ〜、先生! 疾風さんがいらしたんですよぉ!」  不知火医師に気付いた一人の看護婦が、いつもより高くなっている声をかけてきた。 「私達にお夜食の差し入れですって!」 「…そう」  ちら、と彼女らの手元を見ると、何十枚ものクッキーやらドーナツやらが入っている大きなタッパーがあった。  勿論、彼女達はそのクッキーやらドーナツやらを摘んでいる。 「こんな時間に食ってると太るぞ」  不知火医師のその言葉に、看護婦達はギク、という顔になりそれぞれ時計を見る。  時間は深夜といってもいい時間になっている。 「せっかく疾風さんが作ってきて下さったんですよ!」 「あ〜、ハイハイ」 「先生も食べたらどうですか?美味しいですよ!」 「俺はいいや。太りたくねぇし」 「疾風さんは先生の為に作ってきたんですよ!」 「…は?」 「不知火先生にって言って持って来たんですよ!」 「じゃあ何であんたらが食ってるんだよ」 「皆さんもどうぞって言うからお言葉に甘えてるんです!」  疾風が不意に立ち上がり、手作りのドーナツをひとつ摘むと、不知火医師に近付いてきた。  そして、そのドーナツを不知火医師の開きかけた口の中に押し入れた。 「むぐ…っ」 「食べて下さい」 「…わ、わか…った、わかった…から…やめ…っ」  だが、不知火医師の言葉を無視し、疾風はドーナツをまだ不知火医師の口の中に押し入れる。 「自分で食うから」  無理矢理くわえさせられたドーナツを摘んで口から出しながら文句を言う。 「あ…そういえば、これ作るのに台所にあったホットケーキミックス、使っちゃいました」 「ああ、別にいいけど。使わねぇし」 「使わないなら…どうして買ったんですか」 「念の為」 「…あ、そういえば先生…昼間、疾風さんのお姉さんからお電話ありましたよ」 「えっ」  看護婦から、疾風さんのお姉さん、という言葉を聞いた瞬間、ハヤテの身が縮こまるのがわかった。 「…で、何だって?」 「不知火先生はいますかって聞かれたから…今週は夜勤なのでまだ見えてませんって答えておきましたけど…」 「………で?」 「何時頃見えますかとも聞いてきたので、八時ぐらいって答えておきましたけど」 「八時って…」  その言葉に、不知火医師は壁にかけられた時計を見た。数分過ぎている。 「姉さん…来るんですか…?」  不知火医師の白衣の袖をちょこんと摘んで軽く引っ張りながら、ハヤテは少し青白い顔で小さく訪ねる。 「来るって言ってたか?」  不知火医師は、その看護婦に訪ねる。 「いえ…」  看護婦の答えに、不知火医師もハヤテも安堵の溜め息をつく。  だが、その時だった。  突然、電話が鳴り出した。すぐ近くの新人看護婦が電話を取る。 「ハイ、××病院精神科です。……ハイ、ハイ……ええ、いらっしゃいますよ。代わりますか?…ハイ、わかりました。少々お待ち下さい。…不知火先生、お電話です」  その新人看護婦は、手に取った受話器を不知火医師に差し出す。 「……誰から?」 「月光さんていう…女性です」 「あ、お姉さんじゃないですか?」  その新人看護婦の言葉に、周りの看護婦達はそう愉しげに言った。 「……」  そんな看護婦達の愉しげな声に少しばかりイラつきながら、不知火医師は電話を取った新人看護婦から受話器を奪い取る。 「ハイ、不知火」  ぶっきらぼうに言う。 「もしもし…?不知火先生ですか」  受話器の向こう側から聞こえてきたのは、弱々しいアリサの声だった。  一瞬、これがあのアリサかとわからなかった程弱々しい声だ。 「どうしたんですか」 「ハヤテが…弟が、いないんです」  そう言った瞬間、アリサはわっと泣き出した。その泣き声の向こう側から、アリサ、と言う優しい声が聞こえてきた。恐らく、アリサの婚約者、時雨の声だろう。 「もしもし、お電話代わりました。ときと……時雨です」  本名を言いかけて、本名よりこの名前の方がわかりやすいだろうと思ったのだろう。“LUNATIC”での名前を言う。 「ハイハイ」 「あの、疾風……そちらに行ってませんか?」  いきなり核心に触れる。 「どうしたんですか」 「今朝、目を覚ましたら疾風が、いなくなってたんです。心配しないでくれという書き置きだけ残して」 「携帯電話には」 「かけましたよ。電話も、メールも。でも…電源入れてないみたいで、かからないし返事もないんです」 「…何で、俺に…」 「疾風は、先生の事、その…何て言うのかな、気に入ってた…みたいですから」 「気に入ってた…?」 「ええ。俺達の、勝手な思い込みかも知れないんですけど…」  声の様子から、アリサも、時雨も、二人ともハヤテを心配している事が痛い程伝わってくる。  すぐ隣にいるハヤテは、小さく震えて不知火医師の白衣の裾を掴んでいる。  言うべきか、  言わざるべきか…  俯き、ゆっくりと目を閉じ、ほんの一瞬だけ考え込んだ。  そして、意を決した。 「ええ、今此処にいますよ。俺の白衣の裾を掴んでます」  不知火医師の言葉に、ハヤテはビクッと顔を上げた。そして、じっと不知火医師の顔を見つめる。睨んでいるように。 「…今から、ですか。え、まあ……うん………あ、ハイハイ」  と、其処で不知火医師は受話器を耳から外し、自分の顔を見つめているハヤテに差し出す。 「時雨さんから」 「……」 「出るか?どうしても嫌なら断るけど……」  ハヤテは不服そうに不知火医師を睨んでいる。 「どうするんだよ」  差し出している受話器を、早く受け取れと言わんばかりに少し揺さぶる。  不知火医師を睨んだまま、ハヤテは何か考え込んでいるようだ。  だが、すぐに何か思い付いたように顔を上げた。  そして、受話器を受け取った。 「もしもし…」 「もしもし、ハヤテか!?」  受話器の向こう側から、時雨の声が聞こえてきた。 「ええ…」 「何処行ってたんだよ!?心配したんだぞ!」  その声の様子から、本当に心配している事がわかった。 「すみません…」 「やっぱり、先生のとこにいたんだな…」 「……」 「…どうした?」 「違うんです」 「違うって…何が?」 「僕が先生のとこに行ったんじゃなくて、先生に無理矢理拐われたんです」 「な……っ!?」  ハヤテの言葉に驚いたのは、受話器の向こう側の時雨だけではない。このナースステーション内にいる者も同時に驚いた。 もちろん、不知火医師も例外ではない。  いや、不知火医師が一番驚いている。 「拐われたって…」 「先生、何てことを!」  その瞬間、ナースステーション内はまるで火がついたようにわっと騒がしくなった。そのざわめきに、不知火医師は少々慌てる。 「信じるか、フツー!?」 「私達は先生より疾風さんを信じてますから!」 「うわ、こいつら看護婦のくせに医者を信用してねえ!最悪だ!」 「医者としての腕は信用してますけど人間としては信用してません!」 「余計ダメじゃねえか!」 「カオリさん、言葉は正しく使いなさい。人間として、ではなく男として、でしょ」  不知火医師と口論している一人の若い看護婦の言葉に、少し周りの看護婦より一回り近くお年を召した看護婦、婦長が反論する。 「俺はあんたらを女として見た事は一度もねえ!」 「「「ひどい!」」」  看護婦達と不知火医師が口論している間に、ハヤテは電話を終えたらしい。  受話器をおく音で、彼らは口論を止める。 「お前な、嘘つくな!お前から来たくせに!」  ハヤテが受話器をおいた事を確認してから、不知火医師はくってかかる。 「来いと言ったのはゲンマさんです」  そのハヤテの一言が、その場にいるの看護婦達の好奇心やら野次馬精神やらに火をつけた。 「来たとか拐われたとかどういう事なんですか?」 「やっぱり先生、拐っちゃったんですか!?」 「前々からちょっと変わった先生だとは思ってたけど!」 「お前な、こいつらの好奇心煽るような言い方は頼むからやめてくれ!俺ますます此処での立場悪くなるじゃん!」 <<<4へ続く